『物質と記憶』(第2回)

物質と記憶』第一章冒頭の二節、分量にして十頁ほどを一時間あまり熟読した。
先週の日曜日に読んでよく頭に入らなかった「現実的行動と可能的行動」の節とこれに続く「表象」の節。

私はイマージュの総体を物質と呼び、その同じイマージュが特定のイマージュすなわち私の身体の可能な行動に関係づけられた場合には、これを物質の知覚とよぶのである。(24-25頁)

実在論と観念論の間にかかっている問題、おそらくは唯物論と唯心論の間のそれすらも、私たちの考えでは、いまやつぎのように提起される。すなわち一方の体系では各イマージュがそれ自体として、周囲のイマージュから現実的作用を受ける明確な範囲で変化し、他方の体系ではすべてのイマージュが唯一のイマージュにたいして、この特権的なイマージュの可能な作用を反射するさまざまな範囲で変化するが、同じイマージュがこのような二つの異なった体系に入りこみうるのはなぜであるか、と。(28-29頁)

この「二つの体系」のうち前者は「科学」に属し、後者は「意識の世界」である(29頁)。
ここに述べられていること(「問題」の再提示)はある意味でとてもシンプルで常識的だが、ある意味では到底信じがたい。
要は「イマージュ」の理解にかかっている。
イマージュとは「私が感官をひらけば知覚され、とざせば認められない」(19頁)もののことだが、第七版の序では「観念論者が表象とよぶものよりはまさっているが、実在論者が事物とよぶものよりは劣っている存在──「事物」と「表象」の中間にある存在」(5頁)と説明されている。

私たちは、哲学者たちの論争を知らない人の観点に身を置く。このような人は生まれつき、物質とはかれが知覚するとおりに存在するものだ、と信じているだろう。そして物質をイマージュとして知覚するのだから、物質は、それ自体、イマージュであるとするだろう。ひと口にいえば私たちは、観念論や実在論が存在と現象に分けてしまう以前の物質を考察するのだ。(6頁)

それは「本質存在」と「事実存在」に分岐する以前(ソクラテス以前)の「生きた自然(フュシス)」のことなのだろうか。