心脳問題をめぐるテーゼ(私家版)・覚書

昨晩、何年かぶりにカラオケへ行った。
古い歌をふたつほど歌った。
そのせいかどうか分からないが、深夜寝つけず遅くまで起きていた。
休日になればいろいろとやりたいことはあったけれど、寝不足と仕事疲れ(この一週間ほとんど仕事が手に着かなかったのに)で何もやる気が起きない。
いつものように駅前のドトールで本(『他者の声 実在の声』)を一時間ほど読んで、四年前に出た前田英樹の『倫理という力』を買って(なぜかしらにわかに読みたくなった)、高校野球の決勝戦阪神・ヤクルト戦をTVで観戦して、その間にDVDで『ローレライ』を観た。
ひどい映画だと思った。
夜、TVのコントローラーを頻繁に操作しては衆議院選をめぐるニュースのはしごをして寝た。


『他者の声 実在の声』に収められた同名のエッセイを読みながら、「心脳問題をめぐるテーゼ(私家版)・覚書」というのを手帖に書きつけた。


その1.意識は言語から「生産」される。
これは『神々の沈黙』でも主要な仮説の第一として提示されていた。
無意識は言語(他者の語らい)でできているといったこととか、言語が「物質」であると言えるならばそれと同じ意味で意識は「物質」から「生産」されるといったこと。
(ここで「生産 pro-ductin」というのは「五つの推論」のうちの一つで、他は演繹[deduction]・帰納[induction]・仮説形成[retroduction,abduction]・伝導[conduction]。
推論の五つの形式・方法というのは私のオリジナルで、その内容・実質はこれから探求する。
パースによれば、何かを探求しようとするとき「探求に際して使用される論理」と「探求の対象が従う論理」とが同一であるという想定が前提されている。
だとすれば、この五つの推論形式は同時に実在の存在形式でもある。)


その2.意識と物質はつながっている。
實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』によると「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九世紀まで一体だった」(139頁)。
このことはウィリアム・ジェイムズの「ロープ」とかベルクソンの「イマージュ」の概念に表現されている。
(「つながっている」という言い方はまだまだ未熟で、いずれこの概念を鍛えあげなければいけない。)


その3.身体は意識を「表現」する。
もしくは「身体の履歴」(桑子敏雄)が意識を充填する。
あるいは身体とは「仮面」である。
このあたりになると自分でも何を言いたいのかよくわからなくなる。
(「仮面」の原型は「内部が空洞になった管」で、たとえば麦藁がそうだしシンプルな笛も濃厚に仮面的である。
この「管」にいくつか切れ目を入れると複数の音=声を発する高級な笛=楽器になるし、ひいては「顔」=仮面にもなる。
本来、動物の身体は「管」である。だからどうなのだと言われると困るが。)


その4.使用価値と交換価値の分岐が心脳問題の起源である。
これは『出生の秘密』の「あとがき」に書いてあったことをそのまま盗用しているし、このままではテーゼとして使えない。
いまはまだこの程度でしかないが、これらの断片・覚書をたくさん蒐集し、いずれ18ほどのテーゼにまとめあげてベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」のようなカタチに編集していきたいと思う。