『小説の自由』

昨日に続き今日もまた全然やる気が湧かない。
保坂和志『小説の自由』の「11 病的な想像力でない小説」を読み、『物質と記憶』を一節分だけ読んで今日の読書は終わり。
朝日新聞高橋源一郎が『小説の自由』の書評を書いていた。
「小説」について考えることも「小説」なんだ、というのが書評のタイトルで、「小説とは……ひとことでいうなら、ものを考えるためのある一つの優れたやり方、なのである」、つまり小説とは「「小説的思考」によって書かれたもののことだ。
では、「小説的思考」とは何か?
それは、実のところ、『小説の自由』というこの本の中に流れている思考のことなのである」、だから「当然、この『小説の自由』もまた小説」であるという趣旨なのだ。
この指摘はまったくもって正しい。
ただ、保坂和志いわく「小説は読んでいる時間の中にしかない」のだから、「小説的思考」もまた小説を読んでいる(書いている)時間の中にしかない。つまり小説世界の中に立ち上がっているもの、現前しているものこそが「小説的思考」そのものなのだとしたら、そのような「小説的思考」によって(小説とは何かを考える小説を)書くということはいったい誰がどうやって何を書くことなのだろう。
(この困惑はちょうど、すでに立ち上がっている「意識」を使って「意識とは何か」を考えるとは何がどうやって何を考えることなのかを問う時のそれに似ている。)
また高橋源一郎は、「「小説的思考」は、小説が生まれる以前から存在した、というこの魅惑的な考えに、ぼくも同意する」と書いている。
「小説が生まれる以前から存在した小説的思考」によって書かれた書物とは「13 散文性の極致」(まだ読んでいない)に出てくるアウグスティヌスの『告白』のことだ。
「小説が生まれる以前から存在した小説的思考」が「小説が死んだ後にも存在する小説的思考」もしくは「小説という概念とはいささかもかかわらない小説的思考」はては「そもそも書かれることのない小説的思考」(純粋小説的思考)といったものをも含意するとしたら、それは魅惑的だと思う。