『物質と記憶』(第10回)

物質と記憶』。
先週読み飛ばした箇所を熟読したうえでこれまでの議論を反芻しておく予定だったが、気持ちが先へ先へと急くので過去をふりかえらず第二章一節「記憶力の二形式」を読んだ。
(第一章にはいくつか熟考すべき論点や疑問点が残っている。最後まで読んでもう一度帰ってくることにしよう。)


あるひとつの瞬間だけを考えるならば、身体は対象と対象の切断面に存在する伝導体であり、脳は(表象の器官ではなく)運動の器官である。
以上が第一章の結論。
これを流れる時間の中にもどしてみると、身体は未来と過去の動きつつある境界であり、私たちの過去がたえず未来へと推し進めるような動的先端である。
この場合においても脳はあくまで運動の器官であり、だから脳の損傷は運動(記憶から運動への推移)を損なうが記憶そのものを損なうことはない。
記憶には二つの形態がある。
位置と日付をもった一回限りの出来事の表象と、身体に沈澱して運動機構のうちにうめこまれた記憶。
前者(自発的もしくは人格的記憶心象)は思い浮かべるものであり、後者(学習された運動的記憶)は反復するものである。
以上の議論を総括してベルクソンは次のように述べる。

ひとはまず二つの要素、すなわち記憶心象と運動を分解し、しかる後にどのような一連の操作をへてそれらが本来の純粋性をいくぶん捨て、相互に融け合うようになるかを調べるかわりに、それらの癒着から生ずる混合的な現象しか考えないのだ。この現象は混合的だから、一面では運動的習慣の局面をあらわし、他面では多少とも意識的に局限されたイマージュの局面をあらわす。しかしひとは、これを単純な現象だと思いたがる。そこで運動的習慣の土台になる脳、脊髄あるいは延髄の機構は、同時にまた意識されたイマージュの基体でもあるということを、想定せざるをえないだろう。そこからして、脳の中に蓄積された記憶が、真の奇跡によって意識的になり、不可思議な過程によって私たちを過去へ導くという奇妙な仮説が生じるのである。(103-104頁)

ここにあるのは知覚と記憶の本性上の違いについて述べられたのと同じ論法である。
質的分割。プラトン的な精神による分割の方法。巧みに肉を切ること(『パイドロス』)。
ドゥルーズベルクソンの「方法としての直観」の第二規則に掲げたもの、すなわち「幻想とたたかい、真の質的差異または実在の区別を見出す」こと。