音楽のこと

今日も音楽のことを考えている。
考えているといっても、最近の私の(哲学的)確信は「考えているのは私ではない」だから、どこかから「考え」が到来するのを辛抱強く待ちながら他人が書いた文章を読んでいる。
『ソトコト』に載っていた福岡伸一さんの「音楽の起源」が面白かった。
この人の書くものはいつも面白い(『もう牛を食べても安心か』はとびきり面白かった)。
「等身大の科学へ」の連載だけは欠かさず、『ソトコト』を買ったらいつも最初に(時にはそれが最後になることもある)読んできた。
福岡さんは、コマドリナガスクジラやギボンたちの求愛の歌が「音楽の初源的な形態、作曲の先駆けだったのではないか」とするライアル・ワトソンの進化論的な考え方に「徒労感」を覚えるようになったと書いている。
私たちが音楽に求めるものは、進化論的なコミュニケーションの行方に思いを馳せることではなくて、もっと個人的なことのはずではないかと。
いい文章なのでまるごと引き写す。

 そこで私は思い至る。私たちは音楽から感得するその呼吸と脈拍と起伏は、まさに自分自身の呼吸と脈拍と起伏そのものではないか。つまりリズムである。生命はリズムの循環に支配され、かつ駆動されている。肺の規則的な収縮、心臓の鼓動、筋肉の収縮、鼓膜のバイブレーション、神経のインパルス、セックスの律動。これらはすべて生命を刻むリズムであると同時に、私たちのいのちの実在性を確認させる音でもある。
 つまり、音楽とは、私たちが外部に作り出した生命のリズムのリファレンスなのだ。

いい文章だ。とくに「肺の規則的な収縮、心臓の鼓動、筋肉の収縮、鼓膜のバイブレーション、神経のインパルス、セックスの律動」はまるで詩文のようだ。
こんな文章をくりかえし読んでいると、それはいつか私の「考え」になっていく。
福岡伸一さんと茂木健一郎さんは、そういう、私にとってのいい文章を書く科学者の双璧。)


しばらく『ソトコト』から離れていたとき、そのかわりに購読していたのが『風の旅人』で、「人間の命」を特集した15号に「ことばのルーツとしての音楽」が載っていた。
霊長類研究学者・正高信男さんの連載「ことばの起源」の後編。
人間の感覚性言語中枢の情報処理は、音楽をベースにしている。
だから人間の言語学習は、ことばを音楽として知覚するところからスタートする。
前後の文脈は忘れたが、この結論部分だけは印象深く残っている。
音楽は深い。で、北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』を買ってきて、さっきからずっと目次を睨んでいる。
音楽における宇宙論の復活といった話題が最後に出てくるらしい。
いまBGMに流している細川俊夫(『観想の種子』)の名もちらと見える。
本を読む前のこの一瞬がいつもとても好きだ。
もうずいぶん久しく行っていないコンサートの開演を、パンフレットを眺めながら薄暗い観客席で待っている時の感覚を思わせる。