『象られた力』

飛浩隆著『象られた力』を読んだ。
読み終えたのは先月末で、ちゃんとした感想文を書こうと思ってぐずぐずしているうち、時間がとれなくなってしまった。
そんなことはもうどうでもよくなった。
面白かったのなら、それだけで十分だと思う。
収められた四つの作品は、いずれもどこか懐かしい。
忘れたことさえ忘れてしまった記憶の細片化されたかたちと、希釈された力がひとつの物(たとえば言葉や身体)のうちに再現されて、私と私でないもの、見るものと見られるもの、記号と意味の隔てがその物のうちで消失する。
仰々しく表現すれば、そんな感じ。
作者の物語の紡ぎ方、語り方はとても初々しく、かつ瑞々しい。
音楽、絵画、映像、とりわけ漫画がもつ言葉を超えた表現力に拮抗するイメージの喚起力に満ちている。
「感情の力」(「デュオ」14頁)。
「楽譜には作曲家の感情の振幅が記録されている。それを演奏家が解放する。非常に難しい作業だが、まれにうまくいくと、我々は天才たちの感情に同期して翻弄されることになる」(同26頁)。
「人間は五官を通してしか宇宙とかかわってはいけない。五官の外にあるものを、人はついに理解することができない」(「夜と泥の」194頁)。
「スローな意識」(同243頁)。
「そうとも。ものを見ることは、見られることは、それほどに淫らなことなのだ。人は眼差しによって事物を犯し、見ることによって事物に犯される。だからこそ、人は見ずにはいられない。形と、力を」(「象られた力」399頁)。
これらの断片をつなぎあわせて、なにかもっともらしいことを書こうと思えば書けるかもしれないが、そんなことはもうどうでもいい。