『太陽の黙示録』

物質と記憶』の独り読書会はお休み。
あいかわらず「激務」が続いている。
昨晩はとうとう半徹で、朝方までお持ち帰りの仕事に没頭していた。
キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」とグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」をそれぞれ2回ずつ流し(これは昨年も同じ)、ジョン・コルトレーンの「コートにすみれを」(今年の新趣向)を1回聴いたところで力尽きた。
集中力と思考力が拡散して、気持ちも高揚しない。
朦朧とした気分のままで、昼前に起きてまた仕事場に出かけていった。
そういうわけで、このところほとんど活字は読んでいない。
読んでいないわけではなくて、仏教関係のもの数冊や茂木健一郎さんの『プロセス・アイ』などは少しずつ回し読みをしている。
でも、頭と躰に言葉が染み入ってこず、ほとんど読んだ気がしない。
実は『プロセス・アイ』はとうに読み終えていて、それなりに感銘を受けたのだが、それについて何か書き残しておこうという気力が湧いてこない。
また元気になったら感想を書く。
こういう時は、漫画か映画を、何も考えずにぼぉーっと眺めて過ごすに限る。
私は、同じ映画を何度でも初めて観るという特技をもっているが、漫画についてもこれと似たところがある。
似たところがあるというのはちょっとした嘘で、映画のストーリーはからっきし憶えられないが、漫画はしっかりと記憶している。
ではどこが似ているのかというと、映画の場合は何度でも初めて知る物語の筋に興奮できるが、漫画の場合はすっかり馴染みになった物語にあたかも初めてのように没入できるというところだ。
別に似ていようが似ていなかろうがどうでもいい話だが、疲れているとそんなことが気になって仕方がない。
そういえばミステリーの読書体験は、映画のそれに似ている。
犯人が誰だったか、謎解きのキモは何だったかがほとんど憶えられない。


かわぐちかいじの『太陽の黙示録』(9・10巻)を読んだ。
この手の作品は、新刊を1冊だけ読むくらいならいっそ禁欲して読まない方がましだと思うくらい、読み終えて欲求不満が残る。
だから最低でも2、3巻分まとめて読むことにしている。
太陽の黙示録』は去年の秋に9巻が出て、たぶん今年になって10巻が出た。
11巻が出るのはだいたい4ヶ月先のことだから、春になるまで我慢して、5月の連休明けあたりにまとめ読みをする予定だった。
そんな思惑は自分でも忘れて、つい手を出してしまった。
次々に重要な役回りを担うキャラクターが登場してきて、この先どういう展開になるのか。
まあ、だいたいのところは想像がつくが、そういう予感(期待)を読者に抱かせるのが作者の腕の見せ所なのだから、もうすっかりその術中にはまっている。
蛇の生殺しのような真似はやめて、早く完結してくれ。
同じ作者の『ジパング』も14巻まで買っていて、これはたしか21巻まで出ているはずだ。
そろそろまとめ読みをしてもいい。