歴史とクオリア

いま目の前でミュージカルを観ている時の、たとえば群舞するダンサーたちの筋肉の躍動や皮膚ににじんだ汗や迸るかけ声のなまなましい「印象」と、後になってからそれを想起している時に頭に浮かんでいる、あるいは蘇っているもどかしくも朧気な「印象」とは、まったく質の異なるものである。
知覚と想起、現在と過去は違う。
この違うものを一緒くたにして、現在の知覚の場面で論じようとするから混乱が生じる。
難攻不落の心身問題が生じる。
これは中島義道氏が『時間を哲学する』(講談社現代新書)に書いていることだ。
心身問題は時間の問題に帰着するというわけである。
この指摘は正しいと思う。
正しいと思うが、そこから先どうすればいいのかが私には見えない。


小林秀雄の批評は「印象批評」だと言われる。
この「印象」とは「クオリア」のことである。
これは茂木健一郎氏の説で、初めて目にしたときは、あまりに我田引水じゃないかと思った。
が、よくよく考えてみると、確かにあたっている。
茂木氏も言うように、モーツアルトの音楽を耳にした時にしか感じられないユニークなクオリア(音の質感)が、忘れがたい印象として猥雑な日常の中に、たとえば夜の道頓堀を彷徨っていた時に訪れたとして、そこに何の問題もあろうはずがない。
むしろ、そういった忘れがたい印象(クオリア)を離れて芸術を論じることは無意味である。
小林秀雄の批評は「クオリア批評」である。
だとすると、とても面白いことになる。
何が面白いといって、そこに「歴史」をからませると一筋縄ではいかなくなるからだ。
クオリアと歴史の関係、すなわち知覚=現在と想起=過去の関係という「心身問題」のオリジンがそこに立ち上がる。
歴史とは思い出である。
思い出が僕らを一種の動物である状態から救うのだ。
小林秀雄はそう語っていた。


《歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去の方で僕らに余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕らを一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。》(「無常ということ」)


そういえば、冬の道頓堀で小林秀雄の頭に突然鳴り響いた「交響曲第40番ト短調」も、いまそこに現に鳴り響いているものではなく「思い出」としての音楽だった。
現に、あの文章には楽譜が添えられていた(はず)。
楽譜は、記憶のためというよりは想起(思い出すこと)としての再演のための記号(言語)である。
思い切って書いてしまうと、印刷された文字もまた本来、想起のための装置だったのではないかと思う。
だとすると、小林秀雄の「歴史」とは「印象」すなわちクオリアであり、むしろ「歴史」の側からクオリアの問題を考えることにこそ、小林秀雄の批評の実質があったのではないか。
私はなにも小林秀雄の骨董趣味のことを言いたいわけではないが、小林にとって骨董は女体のようなもので、だから「歴史」とは「身体」のことだ。