空しさに耐える知恵──『破綻した神 キリスト』

 バート・D・アーマン著『破綻した神 キリスト』(松田和也訳,柏書房)を読んだ。


 人はなぜ苦しむのか。600万の無辜のユダヤ人は、なぜユダヤ人であるというだけの理由で、冷血に抹殺されなければならなかったのか。この地上で、毎日4万人の男女、子供が、汚染された飲み水に起因する病気のために死んでいかなければならないのはなぜか。
 神はどうして、そのような心を凍てつかせる悲惨な出来事を許すのか。全能の神、そして愛である神が。
 著者は、キリスト教神学において「神義論」と呼ばれるこの問いへの答えを、預言書や黙示録、福音書といった古代文書に記された思索のうちに探る。聖書には、苦痛と悲惨に関するさまざまな説明がある。


1.人が苦しむのは神に背いた罪に対する神罰である。(「アモス書」「マタイによる福音書」ほか)
2.悲惨を創り出すのは他者を虐待し抑圧する人間である。(「詩編」ほか)
3.苦しみには積極的な恩恵があり、神は救済をもたらすために苦難を引き起こしている。(「ローマの信徒への手紙」ほか)
4.苦痛と悲惨は、人がいかなる時にも敬虔でいられるかを試す神の試練である。(「創世記」「ヨブ記」ほか)
5.苦しみにはわれわれに理解できる理由など何も無い。(「コヘレトの言葉」)
6.苦しみは悪の勢力によってもたらされる。やがて死者の復活と最後の審判を経て神の王国が到来する。(「ダニエル書」「ヨハネの黙示録」ほか)


 全9章からなる本書の2章から8章までが、こうした伝統的見解の紹介にあてられている。とりわけ、第1の古典的・預言者的見解と、第6の「黙示思想」(アポカリティシズム)にはそれぞれ2章分が費やされている。
 新旧聖書に纏められた諸文書からのおびただしい引用とともに、これらの文章を丹念に読み込んでいくと、ヘブライ預言者の神学の基盤をなす歴史性が、そして贖罪と救済に関するキリスト教の教理を支える根源的な出来事が、ある生々しさをもって迫ってくる。
 しかし、古代ユダヤ人や初期キリスト教徒が蒙った苦しみをいかに説明するかが問題なのではない。苦難や悲惨は、現に「いま・ここ」にある。それらは概念的な説明をではなく、現実的な反応を求めている。


 著者はいう。聖書の中のどの書も現代のわれわれを念頭に置いて書かれたものではない。それは、その時代の人々のために書かれたものだ。「神の国は近づいた」。ナザレのイエスはそう説いた。それから2千年を経た今、終末はまだ到来していない。
 著者はまた、知的な神学者や哲学者が、苦難や悲惨をもたらす悪というものを単なる「概念」としてのみ取り扱っていて、「実在の人々の生活を引き裂く現実の問題」として取り組んでいないと批判する。「苦しみには生きた人間としての反応が必要だ」。
 これと同じことが聖書にも妥当するだろう。神の計らいによって7人の息子と3人の娘を奪われたヨブは、それでも敬虔さを失わなかった褒美として、新たに7人の息子と3人の娘を授けられた。「いったいこの記者は何を考えているのか? 子供を失った悲しみは、別の子が生まれれば帳消しにされるとでも?」
(終章で、幼児虐待事件にふれたイワン・カラマーゾフの言葉が引用されている。「いいか──もしも誰もが、その苦難によって永遠の調和を買うために苦しまねばならないのだとしたら、どうか教えてくれ、それと子供は何の関係がある?」)


 こうして著者は、聖書のうちに記録された古代的な見解を、コヘレト(教師)が授ける知恵への共感を除いて、すべて棄却する。そして、かつて敬虔かつ熱心な「ガチガチの」福音派キリスト教徒であった著者は、「私にはもはや、この世界の諸問題に積極的に関与する神という存在は信じられない」と告白する。
 この「棄教」がもたらす苦痛は、「空虚感」と表現される。「私には感謝の念を表明する相手がいない」。それは、「コヘレトの言葉」の冒頭と響き合っている。「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。/…/かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。/太陽の下、新しいものは何ひとつない。」


《だが結局、私は苦しみの問題について最終的には聖書に同意することを認めざるを得ない。私が同意するのは、『コヘレトの言葉』に示される見解だ。この世にはわれわれに理解できないことなどごまんとある。この世の多くの出来事には意味などない。時には正義などどこにもないこともある。物事は計画や予想通りにはならない。悪いことは数限りなく起こる。だが人生には善いこともある。人生に対する解とは、生きているうちにそれを楽しめということだ。なぜなら生は儚いものだから。この世は、そしてこの世のすべてのものは、儚く、移ろいやすく、すぐに消えてしまうものだ。われわれは永遠に生きるわけではない──永遠どころか、長くすら生きられない。だからわれわれは人生を十全に、可能な限り、できるだけ長く楽しむべきなのだ。これこそが『コヘレトの言葉』の著者の考えであり、私も同意する。》


 われわれはこの世界を、「われわれにとって」と同時に「他者にとっても」、この上なく快適な場に変えていくべく全力を尽くさねばならない。──本書の最後に示された著者の見解は、それを「概念」として理解しようとすれば、空虚である。「生きた人間としての反応」によって、この空虚は埋められなければならないだろう。
(本書に描かれたキリスト教的な思索を、かつて「実在の人々の生活を引き裂く現実の問題」として苦や悪の問題に取り組んだ仏教思想と対比させてみるとどうだろう。)