「心の歌」としての歌曲、「〈生〉の履歴」としての音楽

 前回抜き書きしたリルケの二つ目の文章は、その後、マルテと同郷のデンマークの女性が、伯爵夫人に請われてイタリア語で、ついでドイツ語で歌うシーンへとつづく。
 そこで、吉田秀和著『永遠の故郷──夜』(集英社)に、詩をめぐる美しい文章があったのを思い出した。それは「春深き」という、フーゴー・ヴォルフの「メーリケ歌曲集」から二つの歌(「春の中で」と「少年と蜜蜂」)を取り上げた文章の冒頭にでてくる。


《詩だって、すべての芸術作品がそうであるように「全体」があってはじめて完結する表現体としてあるのに違いないが、私の経験では、詩の場合はその中の一行が特に読むものの中の何かについての想いを強烈に、鮮明に呼び覚ますか、呼び起こすかするものだ。そうでなければ詩ではないとさえ言いたくなる。だから、詩では詩想の凝縮、凝集への働きが必要不可欠になる。
 そう考えれば、詩人はその一行のために全体を書いた──あるいは、ある詩篇の全体はその一行に到達するための過程としてあるということになる。》(112頁)


 ここに書かれたことは、『永遠の故郷──夜』に収められた12の作品そのものについても言えることで、いま、心に残る「一行」を、「四つの最後の歌」という、これはリヒャルト・シュトラウスの同名の作品をあつかった文章の中から(一つではなく、二つ)拾い上げてみる。


《音楽は現在に響きながら、過去を身近に呼び戻したり、時には未来を予感させ呼び出す働きをする。それが音楽のリアルな生態なのだ。と同時に、この巨匠最晩年の創作では、書いている音楽家は現在生きている人間であるだけでなく、過去の自分でもあるのだ。創作は幾層にもわたる意識と共に行われる。》(41頁)


《では、改めて、こう問いただしてみよう。なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくありうるのか? 美しくなければならないのか?
 なぜならば、これが音楽だからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。
 画家を見るがいい。彼らはなにも何かを飾り立てて、美しく見える絵を描こうとして、仕事をしているのではない。この人たちの心の底深くには、以前から燃える火があり、彼らはそれに追い立てられるようにして、何かを把え、色と形とで見えるものにしようと力の限りをつくしているにすぎない。美はその過程の中で生れてきたあるものでしかない。》(「四つの最後の歌」50頁)


 本書全体にとっての「一行」と思われる文章が、あとがきに刻まれている。


《言葉によりそって音楽を書く時、その音楽は詩のもつ論理性、構築性を無視できない。いや、詩とはそうやって構築されたものだから、音楽家たちは、音によって、言葉によりそった構築物を構築した。そうすると、彼らの「心」がそこに乗り馮[うつ]って来たのである。
 歌曲について書く時、私はその構築物を仔細に眺めることを通じて、歌曲の心に到達する道を選ぶことが多い。歌曲をきくのは、これまた私の心。私は歌の中に心を感じ、心を見、心を聴く。だが、それを書くのは言葉である。作曲から受容までの間の音と言葉のよりそい具合、からみ合い、それが私の関心を呼び、それについて感じ、考えることを、私は楽しむ。ある時は、それがなかなかうまくいかず、私は歌曲の中の心の在り方の迷路の中でさまよい歩く。私はそういう仕事(?)、そういう生き方(?)が好きである。》(151頁)


 こうして、「歌曲とは心の歌にほかならない」という究極の「一行」へとつづいてゆく。
 そういえば、ハイネ=シューマンは「心の歌」「心理の微妙の歌」だが、メーリケ=ヴォルフのは「肉と心の愛の呻きだったり叫びだったり、声にならない声だったりする」(90頁)とか、ピアノの伴奏を「言葉のない心の歌」(151頁)と表現している文章もあった。


     ※
 茂木健一郎著『すべては音楽から生まれる──脳とシューベルト』(PHP新書)から、究極の「一行」を拾い上げてみる。


《あらゆる言葉は、意味はわからなくても音楽として聴くことができる…。(略)そもそも私は、言葉というものを意味においてとらえていない。言葉は意味ではなく、リズムや音といった、感覚的なものに負う部分も多い。意味だけを求めると、本質からは遠くなってしまう。(略)さらに告白してしまうと、ここ数年、私は文章を書く時、意味の伝達に主眼を置いていない。(略)最近では、他人の文章を読む時も、音楽のように読んでいる自分がいる。視覚から入ってきた文字という情報の無意識の層に沈潜するリズムやハーモニーに耳を傾ける、という感覚だ。(略)私の人生は、既に音楽の領域に足を踏み入れてしまったのかもしれない。(略)生きるということは、時々刻々のすべてが音楽であって、自分の〈生〉の履歴は余さず音楽として感じることができるのではないか。世界はおしなべて音楽なのではないか。》(122-124頁)


 「心の歌」としての歌曲にせよ、「〈生〉の履歴」としての音楽にせよ、それらはいずれにせよ中世歌論における「哥」に通じている。