芭蕉・蕪村

『新々百人一首』につづき『完本 風狂始末』(安東次男)の評釈を夜毎、一句もしくは二句ずつ読んでいる。
幸田露伴折口信夫らの諸注を「これでも学問かと云いたくなるほどひどい話で、気分で解釈はできぬものだ」(48頁)とバッサリ切りって捨てるその舌鋒は痛快極まりなく説得力に富んでいる。
といいたいところだが、ここは私ごとき初学者が軽々に口をはさむべき世界ではない。
軽妙にして深甚。
丸谷才一が『恋と女の日本文学』に「芭蕉の名声のかなりの部分は、恋の座の付けとその捌きとによるものであった」と書いている。(このことは前にふれた。)
たとえば「狂句こがらしの巻」初折(しょおり)・裏入の「わがいほは鷺にやどかすあたりにて」に「髪はやすまをしのぶ身のほど」と応じる。
この野水・芭蕉の付合(つけあい)を「男女の問答体」と読み取ることが安東次男の評釈の勘所なのだが、鷺からアマサギ(尼鷺)を連想し、尼の還俗を発想するなど、そもそも「髪はやすま」を「髪生やす間」と読むことすらできなかった未熟者には到底かなわぬこと。
まして芭蕉の「恋の座の付けとその捌き」を鑑賞するなど身の程知らずの所業である。
が、ここはまあゆったりと構えて、日々の蓄積がもたらす奇跡に期待することにしよう。


蕉風を極めることを断念したわけではないが、前々から一度読んでみたかった萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』(岩波文庫)を買った。全151頁の「薄い本」。
坂部恵の『モデルニテ・バロック』や三浦雅士の『出生の秘密』に朔太郎についての印象的な叙述が散見されたこと、昔読んだ山城むつみの『転形期と思考』に蕪村をめぐる刺激的な論考が収められていたことなどが頭にあった。
芭蕉の美のイデアは「老」であり、蕪村の詩は「若い」。しかし「蕪村の本質は、冬の詩人とさえ言わるべきだ」(21頁)。
「俳句は抒情詩の一種であり、しかもその純粋の形式である」(24頁)。
蕪村の詩のポエジイの実体は「時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった」(27頁)。
面白い。