不在の主体=主語──坂部恵の美学講義(2)


 美学講義・第一講に、2001年、幕張で開催されたアジア初の世界美学会大会での挿話が紹介されている。
「インドの女性美学者は、私たちは美術館に展示された芸術などという概念はもたない、といった。非西洋文化圏からの挑戦的な言辞である。」


 その大会に際して日本美学に関するシンポジウムが行われ、コーディネーターの求めに応じて坂部恵が発表原稿を書いている。
 英語で書かれた論考のタイトルは、「不在の主体/主語と批評の不在」(“Subject of the Absence and Absence of the Critique ”)。
 コーディネーターは佐々木健一氏で、求められたテーマは日本文化の「いま・ここ」的性格。
 以下は、その佐々木氏による要約。(『坂部恵──精神史の水脈を汲む』に収録された「民間語源でも何でも……」から)


《そこで、その概略を紹介することにしよう。──出発点は、日本語の命題の特徴である。すなわち、多くの場合主語が明示されず、述語だけで構成される、という特徴である。その文は、不在の主語のところに、状況に応じて様々な主語を入れてみることが可能で(西田の「無の場所」)、日常言語が既に隠喩的な構造をもっている(ここで言う「隠喩」とは、等価なものの重ねあわせ、というヤコブソン的な意味でのそれ)。これに対応する性格が伝統的な日本文化のなかに見出される。まずは、主体=主語の欠如に対応して集団的な創造のかたちがあり(連歌)、そこでは個々の主体が消え、いわば無名の大文字の主体が支配する。ついで「ミメーシス的」性格が指摘される。典型は折口の論じた「もどき」だが(『鏡のなかの日本語』に「〈もどき〉」が収録されている)、これと言語の構造との関係は語られていない。この性格は、能や特に狂言のような演藝に顕著だが、「ふるまい」(もちろん『〈ふるまい〉の詩学』の原点)や「まねび」という哲学的に枢要な概念に通じている。第三が隠喩的表現の優越で、短歌や俳句のような極端な短詩が当然に帯びてくる性格で、かつ墨絵が彩色画以上に色彩的である、という事実のなかにも認められる。最後の特徴は閉鎖的な社会システムで、藝道における秘伝や相伝のかたちをとった藝の伝承、歌舞伎における襲名の事実が参照される。この主語(=主体)的に開き、述語的に閉じた制度は、よく機能している場合には高度の創造性の土壌となりうる。》