批評の不在──坂部恵の美学講義(3)

 坂部恵の日本文化論「不在の主体/主語と批評の不在」の概略紹介の後段。前回引用した佐々木健一氏の文章の続き。


《この文化の特徴は、批評(批判的活動)に対しても次のような影響を及ぼす。先ず、藝道の諸分野で、その初期には傑出した批評が生れる(定家、世阿弥、心敬、芭蕉)。しかし、その教えは直に悪しき意味での collectivism に堕してしまう。また、これらの人びとが傑出した創作家でもありえたのは、ひとつの謎である。「ミメーシス的」性格では、当初強い批評的な力をもっていた「もどき」も定型化してその力を喪い、国学も(まねびを通して)国粋主義へと退化する。また、例えば世阿弥の批評における「はな」や「幽玄」などの隠喩的なキー概念は、当初批判的な意味をもっていたが、直にステレオタイプ化し、批評自体も藝談に堕する。そして最後に、「述語的に閉じた社会システム」のなかでは、公共の基準が成立しにくい、ということがあり、その状況は近代においても続いている。
 最後に、これらの考察に基づいて、坂部さんは日本における藝術創作と批評の可能性について「ペシミスティック」な見解を示したうえで、つぎのような「マクシム」を以てこの発表もしくはエッセイを閉じている。すなわち、「怖れずに他の述語的場に侵入せよ、このプロセスにおいて空(vacant)となることを怖れるな、自ら不在の主体となり、根を喪うことを怖れるな」。》


 最後の「マクシム」「教え」について、佐々木氏は「何やら哲学的遺言めいて聞こえる結びである」と書いている。