Web評論誌『コーラ』31号のご案内


 ■■■Web評論誌『コーラ』31号のご案内(転載歓迎)■■■


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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第41章 和歌三態の説、定家編─イマジナル・象・フィールド


  中原紀生
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 ■モネを超える試み、言葉のかたちをとる想念、レミニッサン
  前章の末尾、筆が走って思わず書きつけた「生きる歓び」の語に触発され
 て、定家の歌の世界における「歓び」に関連する話題を二つとりあげ、定家を
 めぐる予備的考察をしめくくりたいと思います。一つは、プルーストの無意志
 的想起と定家の本歌取りに共通する、認識と言語にかかわる「特別な歓び」や
 「力強い歓び」について。二つ目の話題は、世阿弥を典型とする日本の中世美
 論における「感」、すなわち「かたち」を通じて「もの」の「いのち」にふれ
 た時に得られる「深遠な歓喜」をめぐって。 (以下、Webに続く) 
 
 
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●連載〈心霊現象の解釈学〉第9回●
  よく似た物語は同じ物語か
  ─―怪談の発生と伝播について

  
  広坂朋信
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  前回(連載第八回、本誌26号)、「怪談の解釈学の目指すものは、体験を語
 る物語の類型が語られた体験に与える影響を、民話学などを参考にしながら中
 和し、「よくある話」「よく似た物語」から体験の異様さを救出することにあ
 る」と大見得を切った。大見得を切るところまではよかったが、そこからが難
 所である。私自身、それではどうしたら体験の異様さを取り出せるのか、正直
 言って考えあぐねている。ここからは手探りで考えることになるので、多少の
 論理の飛躍はこれまで以上にご容赦願いたい。(以下、Webに続く)
 

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  夢の話/車中のひとは


  寺田 操
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  明け方よく夢をみる。たいていは断片しか覚えていないが、ときに「物語」
 を紡ぐように鮮明に覚えている。脳内に映像化されている箇所を書きだそうと
 するが、うまく表出できなくてもどかしい。ひとつひとつの場面は鮮明に思い
 出せるが、言語化には距離ができる。(以下、Webに続く)

心に残った本(2016年)

 年々、読了本が加速度をつけて減り、再読本が微かながら増えている。フィクション系と数学自然科学系が激減し、政経倫社系と歴史系が増加傾向にある。
 通販での中古本、電子書籍の購入が増え、遠隔複写サービスの利用が新登場、同時拡散的、部分熟読型の読書スタイルが定着しつつある。
 歳のおかげで一度や二度読んだくらいでは到底、身と頭に浸潤せず、何度でも繰り返しあたかも初めて接するがごとく楽しめるようにもなった。
 本を買う、読むということの内包と外延が拡張しつつある。


伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』


 今年「発見」した新人(私にとっての)。簡明で深い。『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』も記憶に残る。ツイッターでフォローしている四人の内の一人。


市川浩『〈身〉の構造──身体論を超えて』


 今年「再発見」した鬼籍の人。『精神としての身体』を再読した後、続けて『身体論集成』『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』を読了。折に触れ『現代芸術の地平』その他を参照している。
 ちなみに『精神としての身体』と『〈身〉の構造』以外はすべてAmazonの中古本。丸山圭三郎の単行本も含めて今年は随分たくさんの廉価中古本をネットで買った。


中島義道『不在の哲学』
野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』


 フォローしている現役の日本人哲学者の「主著」の刊行が続く。中島本、野矢本ともに必要に応じて再読、三読の上、熟読玩味する常備本。ここに永井均存在と時間──哲学探究1』を掲げたかったが、何しろまだ読み終えていない(読み終えられない)のだから仕方がない。
 永井本では他に『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』と『西田幾多郎』を再読。(『哲学の密かな闘い』と『哲学の賑やかな呟き』が今年もまた越年。)
 関連本では電子書籍版『現代哲学ラボ第2号──永井均の哲学の賑やかさと密やかさ』が(『現代哲学ラボ第1号──入不二基義のあるようにありなるようになるとは?』ともども)面白かった。また鈴木康夫『天女[アプサラ]たちの贈り物[マーヤー]』が濃い印象を刻印するも、いまだ「整理」がつかない。


加藤典洋『戦後入門』
●加藤洋子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』


 今年読んだ戦後史関連本から。他に矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないか』が記憶に残る。


柄谷行人憲法の無意識』
●互盛央『日本国民であるために──民主主義を考える四つの問い』


 今年読んだ政経倫社本から。他に井上達夫憲法の涙──リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください2』が記憶に残る。


●マーク・グリーニー『暗殺者グレイマン
ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム4 蜘蛛の巣を払う女


 ジャック・ライアン・シリーズでは、昨年の『米露開戦』に続き今年はトム・クランシーの後継者マーク・グリーニーによる『米朝開戦』を堪能したが、オリジナル・キャラクター(グレイマン)は新鮮かつ格別な味わいがあった。『暗殺者の正義』『暗殺者の鎮魂』『暗殺者の復讐』『暗殺者の反撃』と五部作を一気読み。
 一気読みでは『ミレニアム4』も負けていない。極上のエンターテインメント小説で、いまだに慣れない(没入しきれない)電子書籍版で目が痛いのも構わず読み耽ったのはこの本が初めて。
 電子書籍では他にジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』も独特の文体(「呪文のような」と解説の馳星周は書いている)と絡みつくテイストが楽しめた。ただiPhoneの小さな画面で、しかも断続的に読み進めたのでストーリーと人物の関係が掴めなかった。


●井筒豊子『白磁盒子』


 Amazonで中公文庫版の中古品を取り寄せ、ほぼ2年かけて読了。橘外男久生十蘭を足して微量の澁澤龍彦をふりかけたような極上のテイスト(と「日記」に書いた)。
 村上博子(文庫解説)が絶賛する「モロッコ国際シンポジウム傍観記」を国会図書館の遠隔複写サービスを利用して取り寄せ、年の始めの初読み用にとってある。続けて蓮実重彦の『伯爵夫人』を少量ずつ惜しみながら嘗めるように読み進めている。


●三上春海・鈴木ちはね他『誰にもわからない短歌入門』
和辻哲郎『日本語と哲学の問題』


 永井均ツイッターで『誰にもわからない短歌入門』という本があることを知り、速攻で取り寄せた。和辻本は「精読用テクスト」というコンセプトに興味を覚えた。
 どちらも書物の「かたち」(物としての本の姿や出版の形態、趣向など)が気に入った。内容もよかったが(特に『短歌入門』)何しろその「かたち」が決まっていた。


 その他の心に残った本(2016年)。


長谷川櫂芭蕉の風雅──あるいは虚と実について』
○安田登『身体感覚で『芭蕉』を読みなおす。──『おくのほそ道』謎解きの旅』
大岡信紀貫之
大岡信萩原朔太郎
鎌田東二世阿弥──心身変容技法の思想』
○尼ヶ崎彬『日本のレトリック』
○海道龍一朗『室町耽美抄 花鏡』


津田一郎『心はすべて数学である』
ウィルヘルム・ヴォリンガー『ゴシック美術形式論』
九鬼周造『時間論 他二篇』
○河合俊雄他『〈こころ〉はどこから来て、どこへ行くか』
中沢新一『熊楠の星の時間』
佐藤公治『音を創る、音を聴く──音楽の協同的生成』
○藤田一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する』


安田理央『痴女の誕生──アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』
平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』
○竹村公太郎『水力発電が日本を救う──今あるダムで年間2兆円超の電力を増やせる』
○東島誠・與那覇潤『日本の起源』
白井聡『戦後政治を終わらせる──永続敗戦の、その先へ』
○井手英策・古市将人・宮�啗雅人『分断社会を終わらせる──「だれもが受益者」という財政戦略』
高橋源一郎『丘の上のバカ──ぼくらの民主主義なんだぜ2』


   ※  ※  ※


 いま読んでいる本のうち(すでに取り上げた『存在と時間──哲学探究1』や『伯爵夫人』を除いて)「心に残った本(2017年)」の候補になりそうなもの。大森本はほとんど読んでいるがなぜか読了感が湧いてこない。


大森荘蔵『物と心』
◎淺沼圭司『制作について──模倣、表現、そして引用』
赤瀬川原平山下裕二『日本美術応援団』
◎渡辺恒夫『夢の現象学・入門』
◎川田稔『柳田国男──知と社会構想の全貌』
五百旗頭真『大災害の時代──未来の国難に備えて』
中沢新一・小澤實『俳句の海に潜る』

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  ●寄稿●
  マイノリティについて語る倫理
  ――「子どもの貧困」を一例として

  田中佑弥
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/kikou-30.html

  本稿を書こうと思った契機は、「新貧乏物語」の捏造である。「子どもの貧
 困」をめぐる昨今の事象を振り返りながら、まとまりのない文章で恐縮ではあ
 るが、考えたことを書き記したい。
  捏造があった「新貧乏物語」は『中日新聞』による2016年の連載記事であ 
 る。『中日新聞』の検証記事(1)によれば、以下のような捏造があった。

   五月十七日付の名古屋本社版朝刊の連載一回目「10歳 パンを売り歩く」
  は、母親がパンの移動販売で生計を立てる家庭の話。写真は、仕事を手伝う
  少年の後ろ姿だったが、実際の販売現場ではない場所での撮影を、取材班の
  男性記者(29)がカメラマンに指示していた。少年が「『パンを買ってくだ
  さい』とお願いしながら、知らない人が住むマンションを訪ね歩く」のキャ
  プション(説明)付きで掲載された。
   撮影当日、少年がパンを訪問販売する場面の撮影は無理だと判明。少年に
  関係者宅の前に立ってもらい、記者自らが中から玄関ドアを開けたシーンを
  カメラマンに撮らせた。

  また、五月十九日付朝刊の連載三回目「病父 絵の具800円重く」でも記者
 は、「貧しくて大変な状態だというエピソードが足りないと思い、想像して話
 をつくった」。
  報道は正確でなければならないが、本稿で考察したいことはそういうことで
 はない。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載<前近代を再発掘する>第6回●
  地獄は一定すみかぞかし

  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-6.html

  前置き
  黒猫編集長にさんざんご迷惑をかけ、岡田さんに無理やりつきあってもらっ
 て、脱線を繰り返しながら続けてきたこの企画だが、『太平記』を一通り読み
 終わったので、今回で一区切りとしたい。(広坂)

  天狗太平記(広坂朋信)
  ■鎌倉幕府滅亡の予兆
 『太平記』にはしばしば天狗が登場する。天狗は、歴史物語としての『太平 
 記』の前近代性を際立たせている特徴の一つだろう。
  まず前回取り上げた「相模入道田楽を好む事」(第五巻4)から見ていこ 
 う。
  田楽に夢中になった北条高時が、ある晩、酔って自ら田楽舞を踊っている 
 と、どこからか十数名の田楽一座の者があらわれて、「天王寺の妖霊星を見ば
 や」と歌いはやした。高時の屋敷に仕えていた女中が障子の穴からのぞいてみ
 ると、踊り手たちは、あるものは口ばしが曲がり、あるものは背に翼をはやし
 た山伏姿、つまり天狗の姿であった。
  この場面をどう受けとめるか。高時の舅が駆けつけたときには、怪しいもの
 どもは姿を消していた。畳の上に鳥獣の足跡が残っていたことから、天狗でも
 集まっていたのだろうということになったが、当事者である高時は酔いつぶれ
 ていたので、目撃者は、家政婦は見たよろしく障子の穴からのぞいた女中一人
 だけである。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第40章 和歌三態の説、定家編─イマジナル・象・フィールド

  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-40.html

  ■音象、ネイロ、世界の影
  前章の最後の節で、パンタスマ(虚象)の音楽的効果について簡単にふれま
 した。今回はその補足、というかやや蛇足めいた話題から始めたいと思いま 
 す。
  大森荘蔵著『物と心』に収められた「無心の言葉」の冒頭に、時枝誠記の著
 書(『言語本質論』(『時枝誠記博士論文集』1))からの孫引きで、平田篤
 胤の次の言葉が紹介されています。「物あれば必ず象あり。象あれば必ず目に
 映る。目に映れば必ず情に思う。情に思えば必ず声に出す。其声や必ず其の見
 るものの形象[アリカタ]に因りて其の形象なる声あり。此を音象[ネイロ]
 と云う」(「古史本辞経」、ちくま学芸文庫『物と心』98頁)。
  いま手元にある『国語学原論』総論第七節「言語構成観より言語過程観へ」
 の関連する箇所を拾い読みしてみると、時枝はそこで、「特定の象徴音を除い
 ては、音声は何等思想内容と本質的合同を示さない。これを合同と考えるの 
 は、音義的考[かんがえ]である。」と書き、先の一文を例示したうえ、「音
 声は聴者に於いて習慣的に意味に聯合するだけであって、それ自身何等意味内
 容を持たぬ生理的物理的継起過程である。音が意味を喚起するという事実か 
 ら、音が意味内容を持っていると解するのは、常識的にのみ許せることであ 
 る。」と書いています(岩波文庫国語学原論(上)』108頁)。
 (以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  黒岩涙香/地 図

  寺田 操
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-34.html

  黒岩涙香
  5月の大型連休のさなか、「黒岩涙香」の文字をみつけて胸がざわついた。
 竹本健治『涙香迷宮』講談社2016・3・9)の新刊。探偵小説家・涙香 
 (1862〜1920)が主人公では?それとも評伝的な小説なのか?
  1980年代、黒岩涙香の翻案探偵小説『幽霊塔』『鉄仮面』『死美人』 
 (旺文社文庫)などを読んだ覚えがある。《雪は粉々と降りしきりて巴里の 
 町々は銀を敷きしに異ならず、ただ一面の白皚々を踏み破りたる靴の痕だも見
 えず、夜はすでに草木も眠るちょう丑満を過ぎ午前三時にも間近ければ》…書
 き出しから怪異の時間に引き込まれた。警官2人の警邏中、黒帽子に長外套の
 襟をあげて顔をかくす紳士が下僕を従えて歩いてきた。下僕の背には重たげな
 籠。なかには絶世の美女の死体。肋骨のあいだにスペードのクイーンの骨牌
 (カルタ)の札が突き刺さり…。フランスの作家ボアゴベイ原作『死美人』
 だ。(以下、Webに続く)

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語り口の問題─永井均が語ったこと(番外)

 これは『西田幾多郎』を読んでいた時に気がついたことだが、永井均さんは本文と註に書いたことを自在に繋いで議論している。その分かりやすい実例が『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』にあった。


《で、こういう類比はどうでしょう? 心や意識のあり方を、時間のあり方と比較してみるのです。自分に直接現われている感覚や意識を現在の出来事に、他者による振舞いの認知を現在の出来事の通時的な記録に、身体内のその物理的基盤を(過去・現在・未来といった時間様相を度外視した)無時間的事実に、それぞれ類比することができます。現在の出来事は、自分にだけ直接体験できる出来事ではありませんが、それと類比的に、その時点においてだけ直接体験できる出来事だからです(ただし、自己と他者の場合と違って、現在と過去には、記憶という直接的紐帯が存在する点が違っていますが)。そうすると、その記憶を含めて、かつて現在だった出来事を新しい現在に伝えるすべてが、自己と他者の間をつなぐ場合の外的な振舞いに対応することになりますし、そうした間主観的連関とも主観的認知とも無関係の物理的事実が、過去・現在・未来といった時間様相とは無関係な客観的出来事連関に対応することになります。》(『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』22-23頁)


 これはちょっとおかしくないですか? 文中の「その記憶」とは、直前の括弧書きの中で言われていることを指しているのだから、それをいきなり次元が違う本文で言及するのは変だと思う。
 まるで舞台上の台詞の中でついさっき楽屋であった出来事に言及するるような、何かカテゴリー違反に近いことをやっている。
 永井均さんのこの語り口は、対話を想定していると考えればよく分かる。仮想の論敵か自分自身との哲学問答。あるいは対話的哲学思考のスタイル。(この本は大学での講義を基にしたものだから、自問自答的思考のスタイルというのが正解かも知れない。)


 『〈仏教3.0〉を哲学する』の鼎談で、時々永井均さんの存在感というか息遣いが聴こえなくなる時があった。じっと聴き入っているのか、別の考え事をしているのか、心ここにあらずなのか。
 それは「語り口」の問題ではなく、その反対の「語らない」ことのあり様の問題とでも言えばいいのかもしれない。
 ともかく鼎談という哲学的思考のスタイルには、本文と註がひと続きになる対話的(自問自答的)思考とはまた違った、本文と註と沈黙(メタレベルでの思考)が一体となった独特のテイストがある。


 ところで、「その記憶を含めて、かつて現在だった出来事を新しい現在に伝える」という永井均さんの発言を読んで、私は、水平的伝達(引用、模倣)、垂直的伝達(表出、反復)、通時的伝達(記録、伝承、心意現象)、共時的伝達(伝導)、そして〈私〉と〈私〉を繋ぐ第五の伝達といった分類を思いついた。
 そんなことを考えたのは、最近読み始めた岡安裕介氏の論考(「折口信夫の言語伝承考」他)を手掛かりに、そこに永井哲学のアイデアを導入して、たとえば和歌の心が伝わるとはどういうことかといった事柄について思いをめぐらせてみたいと考え始めていたからで…
 と、書き始めて、ふと、このような議論の進め方(他人の文章をその内容とかかわらない文脈で引用しておきながら、素知らぬ顔をしてその内容に繋がることを書く)は、永井均さんの「語り口」(本文と註が地続きになる)と似たところがあると気づいた。

知的な問題と修行の問題─永井均が語ったこと(その21)

 続けて、死なない〈私〉をめぐる永井均さんの発言を引く。


《それで、この話は、アキレスと亀の話と同じだと思います。(略)
 これは、論理的にはそうなるけど、実際には追いついて追い抜くじゃないか、というふうにみんなが思うわけですけど、実はそうじゃないんですね。(略)ゼノンが言っているのは、アキレスが亀より速いということだけなんですね。この条件だけしか与えられていないわけです。それで、アキレスの方が亀より速いってだけですから、たとえば、アキレスが亀が前にいた位置に達するごとに、二人ともの速さがどんどん遅くなってもいいわけなんですね。どんどん遅くなっていけば、永遠に追いつけませんね。(略)
 それで、これと、私が死ねないという話は、本質的には同じ話です。つまり、外部に客観的な世界というものを想定しない限り、私の死は訪れませんから。これをすべてだとしても、無だとしても、無は死なないですよね。無だから死なないし、すべてだとしても、すべてには外部がないから、死ぬなんてことはありえない。そもそも私の死ということが、とてつもない重大事として成り立つためには、その内部しかないという視点とその外部があるという視点の、矛盾した両方の視点を往き来する必要がありますね。私の死というのはそういう矛盾した観念ですね。どっちか一本槍で行った場合は、私は死にません。》(229-231頁)


 永井さんご自身は、私は死なないんだという結論に安心立命を得ているわけですか?
 この問いに答えていわく。


《いや、僕は、さっきも言いましたけど、立場に立たないから、二つの考え方がありますよ、と言って、その構造を細かく見るだけですから、場合によって、こっちに行くと安心立命に近くなって、気分もそれで変えられて、何だそうか、そうだなと思うことができますが、これはできない時もありますね。どう言ったらいいんですかね、これはやっぱり知的な問題だから、ある種の情念や情緒が強くなって、スイッチを変えたくても変えられない状態になることがありうる。これは仏教の修行の方の問題ですね。知的な問題じゃなくて。そっちの方面の問題ですけど、何で鍵が掛かって、行かせなくしているのか、という問題がありますね。》(231頁)


 『〈仏教3.0〉を哲学する』で、ここが一番スリリングだった。

死ねない〈私〉─永井均が語ったこと(その20)

 続けて永井均さんの発言を引く。


《この本来的でない根源性、つまり無我的=独我的な観点から見ると、私は死なない、というか死ねない、ということが言えるのではないか、ということをここからはベッカーでもなく、ハイデガーでもなく、私の話として言ってみたいと思います。なぜかと言えば、さっき言った無我的=独我的な〈私〉というのは、そもそも死ぬようなものじゃないんですね。死ぬようなものじゃないっていう言い方が変だけど、全てでありかつ無ですから、時間的にも全てでありかつ無なんですね。このことを細かく言うには、〈今〉と〈私〉の関係の話をしないといけないのですが、それは今日はできないので、〈私〉に関してだけで、この話をしてみます。死なないと言っても、普通の意味で永遠に存在し続ける、ということを言いたいんじゃなくて、むしろ逆で、それが全てだから、それの存在こそが永遠性を定義している、という意味ですね。》(228頁)


 永井均さんが語っているのは、「知的な問題」としての〈私〉の不死性、つまり「全てでありかつ無」であるものの不死性の話である。
 だから以下に述べることは的外れの議論なのだが、「不死」の語を目にすると必ず想起することがある。
 以前「魂脳論」というエッセイを書いた際、『ボルヘス、オラル』に収められた「不死性」から次の文章を引用した。


《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。(略)重要なのは不死性である。その不死性は作品のなかで、人が他者のなかに残した思い出のなかで、達成されるものである。(略)音楽や言語に関しても、それと同じことが言える。言語活動というのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしはスペイン語を使っているが、そのわたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きている。(略)われわれはこれからも不死でありつづけるだろう。肉体の詩を迎えた後もわれわれの記憶は残り、われわれの記憶を越えてわれわれの行為、行動、態度といった歴史のもっとも輝かしい部分は残ることだろう。われわれはそれを知ることができないが、おそらくはそのほうがいいのだ。》


 死なない(死ねない)のは「言葉」である。もしそんなことが言えるとしたら、〈私〉とは〈言語〉である。

非本来的根源性─永井均が語ったこと(その19)

 前回の続き。オスカー・ベッカーのハイデガー批判について、永井均さんが『〈仏教3.0〉を哲学する』の中で語ったこと。


《時間に関して言うと、日常的、世間的な、いわゆる頽落的な時間状態でもなければ、歴史的な一回性、つまり目覚めた本来的なあり方でもないような、ちょうど天体の運動のような永遠の反復というのもあって、そこには宇宙的な永遠の現在があるんだ、ということをベッカーは言うわけです。ベッカーはしかもこれを「無我」という言葉を使って、無我的な生き方だといって、それは死を気にしない生き方だと言う。ハイデガーのように死をものすごく重視して、俺は死ぬぞ、死ぬんだから、そのことを意味あるものにするにはどうしたらいいのか、というふうに考えるのではなくて、その逆で、全く死に思い至らないわけではないが、思い至りつつもそれを気にしない生き方がある、と。それで、これを、本来的ではないような根源性、非本来的根源性と言うんですね…。本来的というのは、ここでは自己自身的、自己固有的という意味ですが、自分自身の死をやたらと気にするという意味ですね。そうではないような、無我的な根源性がある、というふうにベッカーは言うわけです。》(227頁)


 ここで言われていることは、『ピュタゴラスの現代性』に収録された「パラ実存」という論文で議論されていることだと思う。


 ところで、永井均さんのこの発言を読んで、オスカー・ベッカーにいたく興味を覚え(昔読んだような記憶があるが、空覚えならぬ空記憶かもしれない)、訳書、関連本をいくつか手元に揃え、買い集め、借り集めた。
 美学と数学論の組み合わせが魅力的だし、「パラ実存」という概念にも惹かれる。


◎オスカー・ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険』(久野昭訳,理想社:1964)
◎オスカー・ベッカー『数学的思考──ピュタゴラスからゲーデルへの可能性と限界』(中村清訳,工作舎:1988)
◎オスカー・ベッカー『ピュタゴラスの現代性──数学とパラ実存』(中村清訳,工作舎:1992)
◎『稲垣足穂全集[第9巻]宇治桃山はわたしの里』(筑摩書房:2001)
長田弘編『中井正一評論集』(岩波文庫
九鬼周造『偶然性の問題』(岩波文庫


 松岡正剛さんの「千夜千冊」の0748夜が『数学的思考』を取り上げている。その末尾に「参考」として書かれていることがとても興味深い。(稲垣足穂全集第9巻には、オスカー・ベッカーの論文の足穂訳を含む「美のはかなさ」が収録されている。)


  …………………………
 以上、「数学的思考」にのみ迫るオスカー・ベッカーを“ストイック”に紹介したのだが、実はベッカーにはもうひとつ、「美のはかなさ」をめぐる震撼とするような美学があって、ぼくはこちらのほうをずいぶん早くに稲垣足穂によって堪能させられてきた。詳しくは『フラジャイル』(筑摩書房)76ページ以降を読まれたい。
 なぜベッカーを『フラジャイル』で言及したかというと、ベッカーは1929年のフッサール生誕70年記念号の「哲学現象学研究年報」で、「美のはかなさ」の本質としてフラジリティ(ドイツ語でFragilitat)を持ち出したのである。そこにはちゃんと「壊れやすさ」(Zerbrechichkeir)が議論されている。
 これでさらにおわかりのように、ベッカーは「数学だって“はかない”ものなんだ」「そこには不完全で壊れやすいところがあるから、だから美しいんだ」と言いたかったわけなのである。
 なお、「千夜千冊」第689夜にも書いておいたように、日本で最初にベッカーに注目したのは九鬼周造だった。九鬼はベッカー自身にも会っている。
  …………………………