『現代思想としてのギリシア哲学』

古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』読了。再読してもやはり興奮する。
ギリシア哲学は、来るべき時代の哲学である」。
思えば、シモーヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』を読んでギリシャ霊性の集大成者にして神秘家プラトンに心惹かれ、ハヴロックの『プラトン序説』を読んでイデア論への強烈な関心をかきたてられ、井筒俊彦の『神秘哲学』を読んで(ギリシャ形而上学的思惟の根源をなす)密儀宗教的な実在体験に戦慄し、そして本書、とりわけプラトンを取り上げた第五章「ギリシア霊性」を読んで「プシューケー=器官なき身体」説に驚愕した。
プラトンの「ダイモーン神学的発想」の背景にあるエレウシスの密儀をめぐる叙述など、いま読んでもゾクゾクする。
こういう書物に巡り会えるのはほんとうに幸福な出来事だと思う。
トゥールミン/ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』や坂部恵『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』、木田元『マッハとニーチェ──世紀転換期思想史』などとともに、汲めども尽きないインスピレーションをもたらしてくれる哲学史の書。
(唯一の不満はプロティノスを主題的に取り上げた章が欠落していること。
アリストテレスの章もないけれど、実はこの書物全体がアリストテレスを取り上げていると言えなくもない。)


今回「再発見」したことが一つある。
ストア哲学(M・アウレリウス)をめぐる第六章「あたかも最期の日のように」(永井均さんが解説で「この章は格別に美しい」と書いているのに同感)の「誰でもない者への配慮」という節で、ストア派特有の「ト・ヘーゲモニコン」が取り上げられている。
ストア学派は精神的領域を七つに分ける。五感+生殖機能+言語機能。
「この七つの領域のすみずみにプネウマをおくり、それらを活き活きと活動させながら、しかしそれ自体は不可視の生命の息吹(プシューケー)や根源力(デュナミス)としてとどまるナニカを、叡智とかト・ヘーゲモニコンという」。血肉と吐息[プネウマ]でなりたつ公共的・役割的存在者としての「わたし」に生命をあたえそれを制御する指導的部分。
内なるダイモーンともいわれるト・ヘーゲモニコン

この〈内在しながら超越する自分自身〉。けっして皇帝(役柄自己)のように可視的ではないし、誰(ティス)と特定も内容規定もできない自己。だからギリシアの伝統では、「ウーティス(誰でもない者)」とも呼称された自己自身。それが、ト・ヘーゲモニコンである。(281-2頁)

なにを「再発見」したのかは書かない。
パウル・ツェランの詩句(「誰でもない者が…」)が関係しているのだが、ここでは書かない。
いま一つ。
古東さんは『現代思想としてのギリシア哲学』を書くのに千冊の関連本を読んだという。
(千冊の本に目を通すだけならたぶん三年か四年もあればできる。でも、一つのテーマで千冊読むというのはすごい。)
一冊の書物のうしろには千冊の本がひかえている。
それくらいの迫力をこの本はもっている。
これに刺激をうけて、ある著作計画が浮上してきたのだが、これもこここでは書かない。