『アースダイバー』

中沢新一『アースダイバー』読了。ほぼ五ヶ月、手塩にかけて断続的に読み継いだ。
以前、仕事で東京へ出かけた際、空き時間をつかった散策のガイドブックとして携帯したことがある。
その時は、渋谷・明治神宮から東京タワーまで、全体のほぼ半分ほどの文章(「水と蛇と女のエロチシズム」と「死の視線」に彩られた土地とモニュメントの話題、とりわけ東京タワーをめぐる叙述は、後半の浅草をめぐる話題とともに本書の白眉)に目を通したものの、結局、実用書としては使えなかった。
霊的スポット探索のための手軽な道案内としては使えなかったけれど、その後、折りにふれ読み進めていくうち、この白川静の漢字学やベンヤミンの『パサージュ論』にも通じる作品のうちに、「中沢新一の方法」ともうべきものがくっきりと輪郭をあきらかにしていることに気づいた。
その方法とは、記憶や夢や観念の物質(アマルガム)、つまり「泥」をこねて「遊び」に興じることである。


泥は存在のエレメントである。
坂口ふみ『〈個〉の誕生』によると、ラテン語 substantia の語源となり、persona とも訳されたギリシャ語の「ヒュポスタシス」には古く「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの」という意味があった。
(また、折口信夫『日本藝能史六講』第四講によると、遊びは日本の古語では鎮魂の動作であった。)

興味をひくのは、この語[ヒュポスタシス]のもっとも早期の意味に、液体の中の沈澱とか、濃いスープとか、膿というものが見られることである。沈澱とは流動的な液体が固体化したものを言い、おそらくそれから濃いスープや膿などの液体と固体の中間のようなどろどろしたものという意味が出てきたのであろう。そしてこの基本的な意味は、哲学的に用いられるようになっても、残りつづけていると思われる。ギリシア語の『七十人訳聖書』その他の、「存在を得る」という意味にも、非存在から存在が現われてくるという、動的変化のイメージがある。これは液体から沈澱が生ずる時のイメージと共通のものである。そしてレヴィナスが使うイポスターズにも、この「液体の中に固体が現われてくる」というイメージは生きている。(『〈個〉の誕生』116-7頁)


泥をこねて形象をつくること。あるいは、形象のうちに泥をイメージすること。王朝和歌の歌人のように。あるいはサイコダイバー、ドリームナビゲーターのように。
それが中沢新一の方法、つまりイメージ界のフィールドワークである。
松原隆一郎さんが朝日新聞の書評(7月31日)で「文学的想像力」とか「遊び心」といった言葉を使っている。まことに適切な評言だ。


     ※
ほぼ日刊イトイ新聞「中州産業大学&ほぼ日刊イトイ新聞 presents はじめての中沢新一。アースダイバーから、芸術人類学へ。」)に、中沢新一糸井重里タモリの鼎談が載っていた。
以下、若干の抜粋。


◎第7回「資本主義が生まれる瞬間」から。
タモリ》簡単な埋葬の時代と古墳を作る埋葬の時代は、死の認識が変わりますよね。
《中沢》根本的に変わるんじゃないですか。
タモリ》変わりますよね。死の認識がはっきりするということは、おおきな意味でいえば、資本主義のもとがあるかもしれませんね。
《中沢》そのとおりですね。死の認識がなければ資本主義は動かないですからね。縄文時代は村があって、村は円環じゃないですか。その真ん中に、埋葬していたから死体は身近ですよね、夜になるといっしょにおどるわけで。それがやはり墓が離れると……資本主義になってきます。


◎第11回「なんか、皮がムケました」から。
《糸井》『アースダイバー』って、どのぐらいかかってつくったの?
《中沢》アースダイバーは一年。『週刊現代』の連載だよ?
《糸井》(笑)それもすごい。
《中沢》雑誌の中でも、だんだん、うしろにまわされてった(笑)。最終的には『特命係長只野仁』と『女薫の旅』にはさまれちゃった連載だよ。
《糸井》(笑)只野仁の隣にアースダイバーが連載されてたんだ!連載しようと思った人はえらいなぁ。(略)『只野』を読んでた人の心を冷まさないでくれという?(笑)
《中沢》(笑)そうそう。読者を冷まさないで、そのまま神崎さんの『女薫』に突入できるように。