最近読んだ雑誌(続)

◎『中央公論』2006年2月号
日本文化再発見シンポジウム「伝統と美意識は永遠なり」を読む。
語り手は辻井喬小倉和夫、千宗屋、ドナルド・キーンの各氏。
活字で読むと気が抜けたビールみたいな議論だが、会場で生身で聞くとそれなりにコクとキレがあるのだろうな。
ドナルド・キーンが、日本の心は具体的に定義しにくいが、だいたい室町時代の東山文化は日本の心ではないかと語っている。
足利義政の築いた文化が、現在のほとんどの日本文化だと思います。お茶、生け花や墨絵もそうです。畳部屋や庭園も同じです。」
これを受けて千宗屋が「いま和風と言われるもののほとんどは、まさに室町時代に生まれたと言ってよいと思います」と応じ、内藤湖南の説(応仁の乱でそれまでの日本文化は一度壊滅した)を引用し、「わび、さび、も昔は今で言うサブカルチャーだったのではないでしょうか」と続ける。
「ですから、日本文化はクレオール文化という本質をもっていたのではないかと思うのです」と辻井喬
小倉和夫が「あらゆる文化は雑種文化」と応じ、ドナルド・キーンが「いろいろな文化が混じり合ったとはいえ、どこの国でも何か独特なものがあるのです」と流し、千宗屋が「文化の雑種性と言いますと、茶道はその最たるものだと思います」と受ける。

「結局、茶の湯が日本文化とされるいちばんの理由は何かと言うと、わび、さびに代表される『新古今集』的な「冷え枯れる」という和歌の美意識をお茶のなかに持ち込んだからです。さらに、「一座建立」という考え方も、連歌の席の即興性や瞬間性を茶のなかで重要視するようになったことから、取り入れられるようになりました。そうして、精神的、思想的な部分での受け入れ方において、茶の湯はどんどん日本化したのだと思います。」

そのほか印象に残った発言を拾うと、辻井喬が紹介しているある数学者の言葉。
「今後は、日本から数学の天才は出ないだろう、なぜかと言うと、美しい環境に育った人でないと数学の才能が開花しない、崇高なものに跪く精神がないと数学は無理、そして経済的なものよりも精神的なものを大切に思うという風土がなければいけないからだ」。
ドナルド・キーンの『古今集』の部立ての話、千宗屋の型の話も面白かった。


◎『文藝春秋』2006年2月号
三浦展の「下流社会 団塊ニートの誕生」を読む。
下流社会』の主役が団塊ジュニア世代などの若者だけであるとするのは誤解で、他の世代にも「下流」は存在する。
現在の下流化した若者の意識の大本にあるのは、親である団塊世代の価値観である。
三浦氏はそう書いている。「ちなみに下流とは、単に所得が低い人というだけでなく、コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学習意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低い人々を指す。」
三浦氏が腑分けした団塊世代の8つのクラスタのうち、男女とも全体の25%を占める「団塊ニートクラスタ」がまさにこの意味での「下流」の典型である。
他に「貧乏文化人10.5%」と「ヒッピー6%」を加えた4割以上が「下流な傾向」を示す。
多くの団塊世代は、無精ひげを伸ばし汚いジーパンをはき、何もせずに、ぶらぶらするだけ。
きっと街がどんどん汚く、うるさくなるだろう。
だって、そういう、何の役にも立たない無為で「下流」な生き方こそが、団塊世代の理想だったからだ。
団塊世代を総括する』のあの小気味よい議論を思い出す。
三浦氏が腑分けした8つのクラスタが面白いので、その要約を抜き書きしておく。


・ニューファミリークラスタ=高学歴、高所得、勝ち組で、消費好きな中流
・社会派クラスタ=高学歴、学生運動経験者多く、上流志向が強い
団塊ニートクラスタ=低学歴、ややブルーカラー系、全体に意欲が低く、やや下流
・下町マイホームクラスタ=家族でアウトドアを楽しむのが好きな中流の自営業系
・スポーツ新聞クラスタ=ゴルフ大好き、ギャンブルも好きなオヤジ系
・アンノン族クラスタ=散歩とショッピングが好きな元祖アンノン族おばさん
・ヒッピークラスタ=元ヒッピーで古民家好きなサラリーマン
・貧乏文化人クラスタ=創造性を重視するが階層意識が低いアーチスト系