『うつし 臨床の詩学』と坂部恵

森岡正芳『うつし 臨床の詩学』を買った。
昨日の朝日の書評欄(評者:鷲田清一)で紹介されていた。
何が書かれていたかはまるで思い出せないが、その中に坂部恵『仮面の解釈学』の名が出てきたことだけは鮮明に憶えている。
先月の初め近所の本屋で見かけて以来、書名が心に残っていた。
『仮面の解釈学』もちょうど再読しようと思っていた矢先だった。
同時進行的に読み進めてみよう。
こういうかたちでの本との出合いは、時として途方もない深みと広がりをもって後々まで残ることがある。


インターネットで『仮面の解釈学』を検索したら、坂部恵さんの「精神の危機―ヨーロッパと日本」という短い文章がヒットした。
どういう脈絡でいつどこに発表されたものか判らない。
そのうち消えてしまうかもしれないので、丸ごとペーストしておく。


1.カント(1724〜1804)のまだ思想形成途上の著作に、『視霊者の夢』(1766)という一風変った作品がある。同時代の神秘家・神智学者スウェーデンボリ(E.Swedenborg,1688〜1772)の霊能や著作について、①霊界の存在を認める方向に傾く自分と、②物質的存在以外に存在を認めず視霊現象などは夢想にすぎぬと見なす自分、という両極の間を揺れ動く「危機的な」自分のありようをそのままにさらけ出して、最後には日常的な実践の立場で解決をはかったものである。わたくしはこの著作を、ヨーロッパの人間精神の深刻な(同一性の)危機を示す先駆的な著作とみなして、その独自の存在意義を認めてきた。『対話:ルソー,ジャンジャックを裁く』や『ラモーの甥』(ディドロ)などとならんで、この著作は次の世代に来るロマン派を超えて,はるかに20世紀の人間の危機的状況を先取りするものとみなされうるのである。


2.「おもて」という日本語は、素顔と同時に仮面を意味する。このことは、仮面が素顔の写しなのではなくて、むしろ逆に、素顔こそひとつの仮面であることを意味しないだろうか。ラテン語でもと仮面を意味した「ペルソナ」が後に「人格」の意味に転じた背後にも、同様の事態が透けて見える。わたくしが『仮面の解釈学』(1976)で、このような問題を取り上げたのは、現代の人間の危機的状況にたいする欧米の思想家たちのレスポンスをいわば横目で眺めながら、日本語によって、日本語に即して(従来の日本的共同体論に流されることなく)哲学的思考を進めてみたいとおもったからである。


3.日本語によって,日本語に即して考えることの先達として、わたくしの念頭にはつねに和辻哲郎九鬼周造があり、この二人について一冊ずつの書物を公にしてきた。和辻については、晩年の『歌舞伎と操り浄瑠璃』(1955)に幼年期へのプルースト的回想が日本の伝統文化と交錯する独特の深層の心性を見届け、夢と現実の交錯する歴史のヴィジョンに探りを入れた。九鬼は、その代表作『「いき」の構造』(1930)によって、独特の屈折をはらんだ文化文政期のデカダンスバロック個人主義を今日に蘇らせ、60年代以降の文化状況にもなお多くの問題を投げかけていると考える。