記憶のインデックス──『これを語りて日本人を戦慄せしめよ』

山折哲雄『これを語りて日本人を戦慄せしめよ──柳田国男が言いたかったこと』(新潮新書


 柳田国男のことは(萩原朔太郎とともに)数年かけてきわめたいと思っている。究めることはできなくても、自分なりに見極めたいと思っている。
 本書はいずれまた読み返すことになるだろうと思い定め、心に残る印象的な話題をインデックスのように記憶にとどめおきながら読んだ。


 その記憶のインデックスをいくつか記録しておく。


◎柳田の「自然還元」。折口の「始原還元」。熊楠の「カオス還元」。


 柳田国男の学問には「普遍化(=現代化)志向」とでもいうべき方法意識が底流している。
「民俗や文化をめぐる不可思議で珍しい事象を、どこにでもみられる自然的な現象へと還元して読み解こうとしている志向性」(31頁)。
 たとえば「山人」を「縄文人のなれの果て」とみる。


 これにたいする折口信夫の方法は「始原化(=古代化)」。
「不可思議な現象を、柳田のように合理的に解釈のつく自然的な現象へと還元するのではない。そうではなくて、合理的な解釈を拒むような、もう一つ奥の不可思議現象へと遡行し、還元していく方法」(32頁)。
 たとえば「翁」の諸現象を「山の神」に、そして「まれびと」という彼岸の始原へと還元する。


柳田国男の手品には、自然科学的なカードさばきによる謎解きの魅力があるが、折口信夫の手品には同語反覆的トリックの鮮やかな手さばきが躍動していて、意表をつく。」(34頁)


 それでは、南方熊楠の「方法」とは何か。
 狂気のごとき羅列の最後尾が出発点に接触し、一つひとつの材料を突然混沌の淵へと突きおとす「カオス還元」。
「逸脱から逸脱への無限軌道、迷路から迷路への多次元遊泳、──要するにすべての情報をわき返る混沌の溶鉱炉のなかに放りこんで宇宙を回転させようとする熱望が、南方熊楠の誰にも真似のできない「学問」を形づくったといえないだろうか。」(37頁)


◎柳田と折口の「師弟」関係。(どこかしらフロイトユングの関係を思わせる?)


 柳田の「山人」と折口の「まれびと」。
 柳田の「童子」(小さきもの)と折口の「翁」。
 柳田は87歳の天寿を全うしたのにたいし、折口の方は志半ばにして66歳で逝った。
「柳田はすでに生きているうちから柳田「翁」と呼ばれ、成熟した晩年を迎えることができた。ところが、これにたいしてついに成熟の季節を迎えることのないままに人生を閉じた折口。いや、かれはみずから成熟の人生を拒否する生き方を選びとろうとしていたのである。」(176頁)


◎「維新」三つの選択


 明治維新の段階において国の進路を定める選択肢にすくなくとも、福沢諭吉内村鑑三柳田国男の三つの可能性が存在した。
 福沢諭吉=富国強兵、殖産興業にもとづく文明開化路線
 内村鑑三=西洋文明の土台をなす精神原理(キリスト教)を欠く軽薄な文明摂取では本物の独立自尊を築きあげることはできない。(日本のキリスト教は武士道の理想を実現するものでなければならない。)
 柳田国男=食糧生産を確保する自立農業(農民)の立ち上げによる国づくり。「固有信仰」


遠野物語柳田国男古事記本居宣長


 遠野物語はあの世の話とこの世の話が入れ子状になり、両者の世界のあいあだに分明な輪郭線を引くことができない。
「ヒト、カミ、オニの境界がはっきりしない。タマ(魂)とヒト、生霊と死霊のあいだの輪郭がぼやけている。死んだはずのものが死んではいない。死の気配がいつのまにか生の領域を侵している。」(40頁)
 遠野物語古事記日本書紀などよりはるかに古い物語の構造を示しているのではないか。(古事記日本書紀では天上界(天つ神)と地上界(国つ神)の境界がはっきりついている。)


◎海(「伊勢の海」)から山(『遠野物語』『山の人生』)、再び海へ(『海南小記』『海上への道』)という柳田の関心の軌跡。