『物質と記憶』(第1回)

昨日からベルクソンの『物質と記憶』を読みはじめた。
一年くらいかけてじっくりと読みこんで、小林秀雄の『感想』やドゥルーズの『差異と反復』(翻訳が間に合えば『シネマ』も)につなげていきたいと思っている。
手元にあるのは白水社の全集第二巻、田島節夫[さだお]訳。新装版ではなくてかれこれ十五年ほど前に古書店で手に入れた旧版(1965年)。
第二章に入りかけたあたりで挫折していた。
小林秀雄が1961年の講演「現代思想について」で会場からの質問に応え、「君の問題は哲学の問題だ、なぜ哲学を勉強しないのか、ベルクソンをお読みなさい」とたたみかけるくだりがある。
何度聴いても異様に迫力があるのだが、ここで小林秀雄が念頭においているのが『物質と記憶』で、百年に一人の天才の仕事だと絶賛している。
八年間かけてただ一つの切実な問題を考え続けたことを尊敬するとも。
まだ訳者解説と「第七版の序」と巻末の「概要と結論」の冒頭を読み囓っただけだが、ほぼ十五年近い年月を経てようやくこの本を読む準備ができていたことを実感した。
八年どころか一年続くかどうかさえ不安だけれど、しばらくはこの本を基軸にしてやっていけそうだと確信がもてたことに興奮した。


副読本としてジル・ドゥルーズベルクソンの哲学』を買った(この本は木村敏の「リアリティとアクチュアリティ」でもさんざん言及されていて、これはいよいよ読まねばならぬと思っていた)。
ついでに近所の図書館で『差異について』(平井啓之訳・解題)を借りてきた(『無人島 1953-1968』にも「ベルクソンにおける差異の概念」が前田英樹訳で収録されている)。
平井啓之氏の解題「〈差異〉と新しいものの生産」を五年ぶりに読み返した。
ドゥルーズによれば、[その終章で映画についての「あまりにも大ざっぱな批判」がなされた]『創造的進化』よりもほとんど十年も前に発表された『物質と記憶』には、映画芸術の優れた今日的可能性をひらく原理的根拠が、運動=像からはじまって時間=像に到るまで、すでに徹底的にきわめつくされている、と主張されるのである」(159頁)とか、
私見によれば、[『シネマ』での]ドゥルーズの読みは、『物質と記憶』というこの難解な書物が書かれてから九十年後に、やっとそのもつ意味の射程を明かされた、という印象を残す底のものである」(160頁)とか、
「おそらく『失われた時を求めて』ほど、映画的なさまざまな技巧を駆使している小説は他に見られない。彼の〈無意識的回想〉は、そのまま映画のフラッシュバックであろう。カメラ・アイの移動、モンタージュなど、映画の技法の用語を全面的に駆使して、あの長大な小説の構造を説き明かすことも可能だろう」(162頁)といった箇所に鋭く刺激を受けた。

     ※
ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』を拾い読みしていて、第二章の冒頭(35頁)にリーマンの名前をみつけた。
リーマンという数学者には昔から惹かれている。
多様体とかゼータ関数とかリーマン予想といった語彙を目にすると、訳も分からず興奮する。
以前読んで感銘を受けたリワノワ『リーマンとアインシュタイン』の印象が強烈に残っていて、ベルクソンが絶版にした『持続と同時性』はアインシュタインの時間論を批判した書物で、小林秀雄の未完のベルクソン論『感想』でも取りあげられていて……
と連想が弾むと矢も楯もたまらず『持続と同時性』を手にしたくなって(読みたくなってではない)、午後仕事を休み本屋をはしごした。
結局『持続と同時性』が収められた白水社ベルグソン全集第3巻(『笑い』も一緒に入っている)はみつからなくて、ドゥルーズによるベルクソン撰文集『記憶と生』(前田英樹訳)を替わりに買いかけた。
けれども、まずは『物質と記憶』をちゃんと読み終えてからといいきかせ無用な出費を抑えた。
(『持続と同時性』は神戸の中央図書館が所蔵しているようなので、必要になったら借りてコピーすればいい。でも、以前プラトンの『ティマイオス』を全頁コピーしたまま結局読まずに廃棄したことがある。本気で読みたくなったらやっぱり自腹を切って買わないといけない。)