『中世芸能を読む』その他

坂部恵の日欧精神史的転換期の説と丸谷才一の早わかり日本文学史の組み合わせが頭の中でどんどん増殖していく。
ミシェル・ウエルベックが『素粒子』 で提唱し中沢新一が『カイエ・ソバージュ』シリーズでとりあげた三つの形而上革命(一神教革命、科学革命、そしていまだ到来しない第三次形而上革命)と組み合わせてみたり、ゾーエー的・種的な「霊性」とビオス的・個的な「魂」、無意識と意識、システムと情報(養老孟司)、共同体=水平軸と伝統=垂直軸(丸谷)といった二つの概念、ヘーゲル=パースのイコン・インデックス・シンボルやヘーゲルラカン現実界想像界象徴界という三つ組みの概念(声・顔・身という「仮面的なもの」の三つの形象、レヴィ=ストロースの性・開発・神話的思考、等々)その他諸々の概念や観念や形象を重ね合わせたりしているうち訳が分からなくなっていく。
想像界は性と食の世界である(三浦雅士『出生の秘密』)。
だとすると、勅撰集の部立てが四季歌と恋歌中心であること(『日本文学史早わかり』)と大いに関係してくる。農書と歌論という「研究対象」にも近づく。
そこに貨幣・金融・資本論をどう組み合わせるか。これはほとんど独語的覚書。


松岡心平『中世芸能を読む』の熟読を再開した。
勧進天皇制・連歌・禅の四つの切り口から中世芸能を読む。この四区分はとても汎用性がある。
抽象化して整理すると、勧進天皇制は「貨幣(経済・市庭)」、連歌と禅は「言語」の項で括ることができる。
また、勧進連歌は「身体」、天皇制と禅は「精神」の項で括ることができる。でもこれは平板。面白くない。
勧進(経済)がひらく聖俗のあわい=無縁の時空・磁場、そのエネルギーを天皇制(政治)が活握し(「活握」はたしかマイケル・ポラニーの『個人的知識』で harness の訳語として訳者・長尾史郎が造語したもの)、芸能(民衆の身体)と連歌(言葉の宴)が駆け抜け、禅(脱神話・脱思考・脱言語)が脱構築する。
何をいっているかよく分からないが、弁証法的というのでも進歩・進化というのでもない連鎖、推移としてこの四項を数珠繋ぎにしていくこともできる。
推移していくのはもちろん概念・観念・形象である。これらもまた独語的覚書。
インターネットで「松岡心平」を検索して『有鄰』(No.437)掲載の「世阿弥と金春禅竹――『精霊の王』を読んで――」を再発見した。これは以前いたく刺激をうけた文章。
そこで松岡心平は「スピノザが、デカルトの精神と物質の二元論哲学(現代のわれわれの思考のベースである)に強く反発することで、極端な一元論へと傾斜していったプロセスとよく似たことが、世阿弥と禅竹の間におこっている」と書いている。
『精霊の王』から関連する引用があったので孫引きしておく。

スピノザの哲学が唯一神の思考を極限まで展開していったとき、汎神論にたどりついていったように、金春禅竹の「翁」一元論の思考も、ついにはアニミズムと呼んでもいいような汎神論的思考にたどりつくのである。 これほどの大胆な思考の冒険をおこなった人は、数百年後の折口信夫まで、私たちの世界にはついぞあらわれることがなかった。