恋歌と恋文、音の韻と字の韻(その1)



石川九楊『日本の文字──「無声の思考」の封印を解く』(ちくま新書


 西洋の恋する男は女性が暮らす部屋の窓の下で歌を歌って求愛するが、東アジアの男は恋文を書いて思いを伝える(152頁)。西洋では声の美しい男がもてて、東アジアでは美しい文字を書く男がもてる。
 それはなぜかというと、それぞれで使っている文字が違うからだ。西洋のアルファベットは母音子音の有声の単位で構成されるが、東アジアは無声の点画(一字で一語の漢字を構成する符号)を文字の構成単位とする。西洋の言語は声をもつが、東アジアの言葉は声をもたない(126頁)。
 このことはまた中心となる芸術の違いをもたらす。有声の構成要素からなるアルファベット文明圏(話す文明)では発声つまり声を基盤とする音楽が、無声の構成要素からなる漢字文明圏(書く文明)では書字を基盤とする書が表現の基本を形成する(129頁)。


西洋文化圏における音楽の位置づけを象徴するのが交響楽である。多彩な楽器によるオーケストラ演奏に匹敵する音楽が、東アジアではついに生まれてこなかった。日本にも太鼓を用いた迫力のある音楽が存在すると考える人もいるだろうが、交響曲のハーモニーに比べると、質的にまったく異なる音楽である。日本の太鼓が西洋でも人気を博しているといっても、それはあくまでアジア的なエスニック音楽として受容されているだけのことである。
 逆に、日本のひらがなの書、あるいは中国の漢字の書の美しさの表現は、西洋にはまったく存在しないものである。西洋にも文字を外部に飾り立てる花文字のようなカリグラフィがあるが、その表現は文字を内部で支える東アジアの書が到達した表現レベルの深みには比べるべくもない。
 西洋における音楽と比肩できるのは、東アジアにおいては書である。これは間違いがない。西洋が培ってきた音楽と同じ質を、東アジアでは書に培ってきた。書という芸術は、音楽や劇などの要素を含みこんだ複雑な表現である。
 そして日本の音楽は、西洋におけるカリグラフィに相当する。カリグラフィとは文字を美しく飾り立てるものであり、東アジアの音楽もまた同じようにその基底は、声を外部に飾り立てるものである。これは日本の伝統的な音楽に限った話ではなく、現在の日本の音楽にもあてはまる。日本の流行歌で大切なのは、音曲性よりもむしろ歌詞。歌詞がどのような心情を歌っているかが重要なのであって、曲の方はさほど重要視されない。
 その事実が最も典型的にあらわれているのが、能の謡や詩吟である。》(149-150頁)


 文字の構成要素が声をもつ「音符」か声をもたない「形符」か。この違いが言葉、ひいては文明の違いをかたちづくる。


《日本語が現在のような音訓両用、[語彙的には漢語と和語に分裂し、構造的には漢語の詞を和語の辞が支える─引用者註]二重複線言語であり続けている理由は、漢字の性格に由来する。無声の構成要素から成り立っている無声の点画文字であるために、読み方を自由に当てはめることができる。この漢字の特性によって、第一段階の有無を言わせぬ圧倒的な水圧の漢詩・漢文・漢語の流入(漢字)にとどまらず、第二段階でのこの訓読による翻訳(カタカナ)、さらには第三段階の翻訳確定語(現地語・和語)の文[かきことば]化(ひらがな)という三文字、三文体言語の日本語の体系がつくられていったのである。》(137-138頁)


 詩もまた文字の違いの影響下にある。詩とは韻律をともなった文であり、この点においては西洋も東洋も同じである。しかし西洋では韻律が「音の韻」になるのに対して、東洋詩、とりわけ日本の和歌の場合、韻律が音にとどまらず「書く韻」「字の韻」になる(204頁)。
 以下、本書のハイライト(私にとって)をなす議論へと接続される。