2007-01-01から1年間の記事一覧

『歌舞伎と操り浄瑠璃』─「うた」と「語り」、舞踊と「しぐさ」

絶不調を通り越して、ほとんど死に体の状態が続いている。梅雨時の空のように、頭の中に重たい雲が垂れ込めて、体には黴がはりついている。心はすっかり干からびている。 今日、雨があがった午後の公園を操り人形のように直線状に歩行し、図書館で和辻哲郎の…

再起動?

4月に生活の環境が大きく変わり、日々ドタバタしているうち、いつのまにか五月の連休も明けて、気がつくとほぼ一月近く、このブログから遠ざかっていた。そろそろ再起動したいと思っているのだが、いまさら何をどう書けばいいのか、いまひとつ気持ちが高ま…

『コーラ』創刊

Web評論誌『コーラ』が創刊されました。「哥とクオリア/ペルソナと哥」というタイトルで連載を書いています。よかったら眺めてみてください。 ●「コーラ」 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html ●哥とクオリア/ペルソナと哥 第1章 「クオ…

私は死ぬまでにどれだけの本が読めるだろうか

光文社の知恵の森文庫から、丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』が出た。2001年にマガジンハウスから刊行されたもので、そのときは結局、購入しなかったけれども、以来、なんどか図書館から借りてきては、編著者の序文や、収められた21篇の書評のうち…

ハードボイルドな心、高度産業社会を生きる技術

河野哲也著『〈心〉はからだの外にある』は、二つの太い線で構成されている。一つは「デカルト的コギト」以後の主観主義(純粋自我の概念)への批判であり、いま一つは政治的なものを心理学的なものに置き換える心理主義(反省的自己の概念)への批判である…

神話論理・哥の勉強・その他とりとめのないこと

前回とりとめなく書いたこと(鈴木一誌の文章の「メカニック」な感触のこと、『雪国』の島村が舞踊評論家だったこと)との関連で、いや関連しないけれど、もう少しとりとめのないことを書いておく。 ◎クロード・レヴィ=ストロース『神話論理Ⅱ 蜜から灰へ』…

信仰をもつ人間の枕頭の書、そして重力と舞踏

鈴木一誌は、『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に収められた「重力の行方──レヴィ=ストロースからの発想」を、こう書き始めている。「しごとを終えたあと、邦訳されたクロード・レヴィ=ストロースの著作を読むのが、二か月ほどのならいとなった。…

立川武蔵『仏とは何か』

立川武蔵著『仏とは何か』(講談社選書メチエ)を読んだ。 講義録「ブッディスト・セオロジー」の第三巻。第一巻「聖なるもの 俗なるもの」と第二巻「マンダラという世界」は、昨年三月、四月と続けて刊行された際に買い求め、全五巻が出揃ってからまとめて…

橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』

ようやく一つ、「棚卸し」ができた。 読みかけのまま放置している本が一杯あって、気になってしようがない。『時間はどこで生まれるのか』の関連本では、去年の2月に同時に買って、いまだに読み切っていないのが三冊ある。内井惣七『空間の謎・時間の謎──宇…

ノヴァーリスの断章

古今東西、老若男女、聖俗貴賎を問わず、一番好きな作家は誰かと問われたら、たぶん迷わずノヴァーリスと答えるのではないかと思う。そんなことを訊ねる人はいないだろうし、それに、きっと時と場合で答えは違ってくるだろうけれど、今のところはノヴァーリ…

スコラスティック・レアリズム、トリニティ

「中世哲学復興」の特集を組んだ『大航海』から、坂部恵×樺山紘一の対談「中世哲学のポリフォニー」と神崎繁×三浦雅士のインタビュー「翻訳が創造したもの」、パースの「観察の新しいクラスについて」(三谷尚澄訳)と訳者解題「スコトゥス的実在論者として…

自己投入(合体)と自己分裂(分身)、体験された現象

『坂部恵集4』を買って、いつものようにあとがきと月報を読んだ。月報には池上嘉彦、吉増剛造、両氏の文章が掲載されていた。どちらも面白かった。(肝腎の本文の方は、第1巻の「生成するカント像」をはじめから順を追って読み始めたものの、これに専念し…

現に書いている時間にダイブすること、批評の瞬間

本の読み方にはいろいろある。決まった方法や作法というものはない。昔、ある人から、背表紙を凝視することも一つの読み方で、三木清がそういう趣旨のことを書いていると聞いたことがあるが、この記憶はあやしい。 本の読み方に各種の方法があるとすれば、感…

『ニッポンの小説』その他

久しぶりに予定のない時間がぽっかりできたので、たまたま手元にあった高橋源一郎著『ニッポンの小説 百年の孤独』をぱらぱらと眺め始めると、これがめっぽう面白く、きりのいいところで止めるつもりが止められず、とうとう最後まで一気読みをして、おかげで…

哲学を伝えること=独立に哲学をすること──永井均『西田幾多郎』

西田哲学(絶対無の哲学)の核心の上に、これとは「区別することはできない」永井哲学(独在性の〈私〉をめぐる形而上学、もしくはその論理−言語哲学ヴァージョンとしての開闢の哲学)の核心を重ね描いた西田=永井哲学の「解説書」。 言葉と独立にそれだけ…

概念のポリフォニー

ラテン語のペルソナは、三位一体の神の三つの「位格」(父・子・聖霊)を示す語として採用されるはるか以前から、劇場での仮面や劇中の人物、文法上の人称などの意味をもつ語として使用され、キケロ以降、法的人格や社会的役割、人柄、さらに抽象的な「人間…

非人格的な感情/感覚質の宇宙/精神の結晶

図書館で借りて、読まずに継続を繰り返しているうちに予約が入ってしまったので、伊藤邦武著『パースの宇宙論』(岩波書店)を購入。新品同様のものを、古本屋で800円引きの2千円で買った。とりあえず、プロローグ「ヴィジョンとしての多宇宙論」とエピロー…

ミシェル・ビュトール『時間割』その他

好天気に恵まれた三連休がさっさと素通りしていった。とりとめのない雑然とした印象しか残っていない。 永井均『西田幾多郎』の三度目の通読を終え、ためいきをつき、中村真一郎『女体幻想』の「1乳房」と『坂部恵集1』の月報(柄谷行人と鷲田清一)と「人…

脳もまたイマージュである

「クオリアとペルソナ」の方は、先週いっぱいかかって、第1回「哥とクオリア」の三分の一ほど書いたところ。予想外に長くなってしまって、といっても半分以上は引用か祖述、残りの半分は言い訳か予防線かせいぜい伏線のようなゴタクばかりで、書いていても…

クオリアとペルソナ(備忘録4)

一昨日の「備忘録3」で、西洋における「自然科学/キリスト教神学」に相当する日本の「実証思考(感覚世界)/抽象思考(概念世界)」は「歌論/仏教思想」で、「キリスト教神学」が「ペルソナ」に、「歌論」が「クオリア」に関係してくる、と書いた。 もし…

川端康成のこと・その他──クオリアとペルソナ(備忘録番外)

にわかに川端康成への関心が高まっている。 きっかけは、このところ専念している「クオリアとペルソナ」をめぐる考察を、島崎藤村の『夜明け前』と川端康成の『雪国』の、いずれもよく知られた書き出しの文章の比較から始めようと思いつき、そのためには『雪…

クオリアとペルソナ(備忘録3)

いくら「理論」にかかわることだとはいえ、あまりに抽象的な話ばかりで、書いていて面白くなくなってきた。これではいつまでたっても「クオリア」や「ペルソナ」にたどりつけない。そろそろ具象的、というか(抽象との対比でいえば)感覚的な事柄に即した話…

クオリアとペルソナ(備忘録2)

説明や論証や例証抜きの抽象的な議論がつづく。 ※ 昨日の文章の最後に出てきた「立ち上がり」(クオリアと志向性から言語が立ち上がり…)と「重ね描き」(二つの二項対立の重ね描きで四項を整序する…)、言い換えれば動的アプローチと静的アプローチによる解…

クオリアとペルソナ(備忘録1)

12月7日に挙げた本のリスト12冊のうち、とにかく読み終えたのはたったの3冊。当初の予定では、これらを全部読み込んでから「コーラ」への寄稿文の第1回目を書くつもりだったので、これではまだ足りないはずだが、年明以来、想像がたくましくなって、とう…

本のリストと若干の抜き書き──ペルソナ・ヒュポスタシス・その他

一昨日までで、一応の構想がまとまった。「クオリアとペルソナ」というまだ仮称のタイトルのもとで、ここ十年あまり取り組んできた作業の集大成をやってみよう。何年かかるかわからないけれど、また、今の意気込みがどこまで続くかわからないが、とにかくや…

他者の思考を幻聴の声として聞くこと

一昨日、全文引用した木村敏の「日本語で哲学するということ」(『坂部恵集』第3巻月報に掲載)は、何度読み返してみても飽きることがない。実に使い勝手がよくて、いくらでも応用がききそう(もしくは、この論考を安全基地として連想と妄想を恣にすること…

日本語で哲学するということ

昨日は思わず私事に走ってしまった。本来の話題にもどす。本来の話題とは、すでに二冊もっている『仮面の解釈学』に収められた論考のほとんどを収録した『坂部恵集』第3巻を購入したこと、とりあえず著者によるあとがきと月報と論考一篇に目を通し、軽い眩…

仮面考

昨年暮れに始まり、先週の初め頃から本格的な段階への下ごしらえと素材蒐集に取りかかったこの名前のない「作業」(「歌とクオリア」もしくは「立ち上がる〈私〉」もしくは「〈私〉という共同体」等々)を通じて、私はそもそもいったい何をやろうとしていた…

映画としての宗教(続)

「流動的知性(認知的流動性)」について、念のため「映画としての宗教」(『群像』1月号)から抜き書きしておく。それは、ホモサピエンスをネアンデルタールから分かつ「心の革命」によって発生した。 《おそらくニューロンの接合回路が組み替えを起こし、…

映画としての宗教

『群像』1月号に掲載された「映画としての宗教 第一回 映画と一神教」で、中沢新一は、フォイエルバッハの唯物論的宗教論や旧石器時代の洞窟壁画のイメージ群を素材にして、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが…